Roberta Gambarini
ロバータ・ガンバリーニ
BIOGRAPHY
イタリア、トリノ生まれ。
ジャズをこよなく愛する家族に囲まれ子供の頃からジャズを聴き始める。両親(二人はジャズ・コンサートで知り合った)が小さい頃からロバータをジャス・コンサートに連れて行き、ベイシー、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ベニー・カーターら大勢のジャズの巨匠たちの音楽に親しんだ。12歳でクラリネットを習い始め、17歳から北イタリアのジャズクラブで歌い始める。18歳で、ジャズ・シンガーとしてのキャリアを築くためミラノに移ることを決める。ミラノに移ってすぐに人前で歌うようになるが、若い女性が大きな都会に移り住むということは経済的にも大変むずかしかった。両親の愛情と応援、それに小さな仕事が少しずつつながり始め、それが彼女を支えになり、チャンスも訪れるようになった。まだ10代のうちにイタリア国営ラジオ・テレビ主催のコンペティションで3位に入賞。ポンペイ国際ジャズ・フェスティヴァルやヴェニスのリドで行なわれた国際ジャズ・ミーティング(1985)やその他の数々の国内フェスティヴァルなど、イタリア中のジャズ・フェスティヴァルで歌う機会につながっていく。ロバータは自分のバンドを率い、また沢山のイタリアのミュージシャンとも競演。1986年から自己名義や、ゲストとしてイタリア国営ラジオ・テレビのジャズ番組に出演。1997年、フランスのハモンド・オルガン奏者エマニュエル・ベックスとイタリア中のジャズクラブをツアー。1998年、ボストンのニュー・イングランド音楽院の奨学金を得て、活動の拠点をアメリカに移す。同年10月、「セロニアス・モンク・インターナショナル・ジャズ・ヴォーカル・コンペティション」で3位に入賞(1位:テリ・ソーントン、2位:ジェーン・モーンハイト)。その後ニューヨークに移ると、彼女の素晴らしい才能が噂を呼び、たくさんの有名ジャズ・ミュージシャンとアメリカや世界各地の会場で競演する機会にめぐまれるようになる。ロバータを最も熱心に応援した一人が晩年のベニー・カーターである。ロバータは子供の頃からベニー・カーターを音楽の師として尊敬していた。彼はロバータのデモCDを聴いて、ロサンジェルスで彼女に会う手筈を整えてくれた。ベニーは彼女の音楽性にほれ込み、個人的に、ことある毎に友人や仲間にそのニュースを広め、ライヴの手配までしてくれたのである。それで、ロバータの名前はロスで聞かれるようになった。ロバータがベニー・カーターの音楽が大好きだったという事もあり、ありがたいことに、彼は自分の曲とアレンジの使用をOKしてくれた。ベニーとロバータの親しい関係はその後も続き、2003年7月にベニーが亡くなる時まで、プロジェクトとして実際に計画されていたのである。
彼女は驚くほど多くのコンサートに出演しているので、その内のいくつかを列記する。
モンタレイ・ジャズ・フェスティヴァル、ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル(デン・ハーグ、ケープ・タウン)JVCジャズ・フェスティヴァルNYC、ウンブリア・ジャズ・フェスティヴァル、ライオネル・ハンプトン・ジャズ・フェスティヴァル、ジャズ・プラザ・フェスティヴァル(キューバ)コンセルトヘボウ(アムステルダム)他。ロバータはイタリアのペルージャで行なわれたウンブリア・ジャズ・フェスティヴァルでチューチョ・ヴァルデスと知り合った。チューチョは彼女を2000年12月のハヴァナ・ジャズ・フェスティヴァルに招待し、その後2002年にも呼んでいる。初対面で意気投合したチューチョとロバータはアメリカや海外でも競演を続けている。その後、スライド・ハンプトン指揮のディジー・ガレスピー・アルムナイ・ビッグ・バンドとのヨーロッパ・アジア・ツアー(2004年12月ブルーノート東京出演)、ジェームス・ムーディ・バンドのゲスト・シンガーとしてニューヨーク・ブルーノート出演など積極的にツアーを行なっており、2005年12月にはワシントンDCのケネディ・センター出演。2005年11月23日、ファン待望のデビュー・アルバム「イージー・トゥ・ラヴ」がスイングジャーナル誌選定ゴールド・ディスクとして、55 Records より日本先行発売される。2006年1月、同アルバムがスイングジャーナル誌ジャズ・ディスク大賞ヴォーカル賞を受賞。デビュー・アルバムとしては史上初の快挙である。2006年6月、ハンク・ジョーンス・トリオと共にJVCジャズ・フェスティヴァルに出演。それを皮切りに7月のウンブリア・ジャズ・フェスティヴァル(イタリア)、ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル(オランダ)、ニース・ジャズ・フェスティヴァル(フランス)等ヨーロッパ各地で大成功を収める。
なお2005年11月に日本先行発売された「イージー・トゥ・ラヴ」はその後世界発売され、第49回グラミー賞ベスト・ジャズ・ヴォーカル・アルバムにノミネートされ、米ダウンビート誌8月号のレヴューで4つ星の高得点。恒例の第54回クリティック・ポールでも新人女性歌手部門で4位に入る検討ぶりを見せている。世界がようやく日本に追いついて来た感じだ。2006年3月丸の内、コットンクラブ出演のため、初の単独来日。同年10月富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァル出演のため再来日。2007年1月ニューヨークで開催されたIAJEに出演。同月ニューヨーク、ブルーノートに自己名義で1週間出演大好評を博す。2008年6月富士通スペシャルJAZZ ELITE 2008で3度目の来日。9月にもロイ・ハイグローヴ・ビッグ・バンドとのブルーノート公演で来日。2008年7月、権威ある米ジャズ誌「ダウンビート」2008年度(第56回)国際ジャズ批評家投票、女声ヴォーカル新人部門で堂々1位に選出される。2009年第52回グラミー賞ベスト・ジャズ・ヴォーカル・アルバムにノミネート。
2009年フランス・ジャズ・アカデミー賞受賞。
米ジャズ誌「ダウンビート」2010年度(第58回)国際ジャズ批評家投票、女声ヴォーカル新人部門で再度1位に選出される。
2009年4月5度目の来日、コットンクラブ他出演。
2010年2月ブルーノート東京出演のため6度目の来日。
2010年11月富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァル出演のため7度目の来日。
2012年4月コンットンクラブ出演のため8度目の来日。